変わらない世界の中で、消えてしまう自分の存在をどう残すか

さて、僕は以前noteでこんな書いた。

かつて、バーチャルフォトというものに絶望していた。
だからこれはこの記事を書いた僕に対する、未来からの手紙なのだと思う。


休みの日のある日。
僕は街角に立ち、カメラのシャッターを切る。
そこには光の粒子が躍り、季節は廻り風に揺れる草木があり、昨日とは違う汚れが壁に刻まれている。
「一期一会」という言葉が、堆積する時間の重なりが、レンズ越しに重く、確かな手応えとして伝わってくる。

VRの世界はどうだろうか。
そこは完璧に管理された「永遠」だ。いつ訪れても同じ角度から光が差し、テクスチャは朽ちることなく、風景は停滞している。
ハードウェアの限界が生む情報の少なさと、変わりゆくものがない空虚さ。僕はそこに「時間」を見出すことができず、ただ立ち尽くしていた。

けれど最近、ようやく気づいたことがある。
僕が感じていた絶望の正体は、世界が変わらないこと以上に、「そこに僕がいた痕跡が、何ひとつ残らない」ということだったのだ。

VRChatのワールドは多くの場合、どれほど深く愛し、どれほど長い時間を過ごしても、僕の体温も、足音も、空気の揺らぎも記憶してくれない。
サーバーとの通信ログという無機質なパケットの跡こそ残るが、一般的に見て僕らがそれを観測することは日常にはない。
僕がその景色の一部であったことを証明するものは、物理世界のどこにも存在しない。ヘッドセットを脱げば、この体験は再び0と1の海へと溶けて消えてしまう。

だから、僕はプリントをしようと思う。

理想的な空間であるが故に時の流れすら感じさせないデジタルデータを、あえて。紙という、いつかは色褪せ、汚れてしまうかもしれない「物質」へと引き摺り出す。
それはVR空間という実体のない場所に碇を下ろすような行為だ。

フォトブックを作る。1枚だけプリントする。どんな出力だっていい。
それは単なる作品ではない。通信の跡しか残らないあの世界で、僕が確かに呼吸し、そこに立ち、レンズを向けたという「存在証明」だ。
VRフォトにはないシャッターの衝撃に代わる確かな「存在感」だ。

以前は「変わりゆくもの」を撮れないことに絶望していた。けれど今は、消えてしまう自分の居場所を物理的な形としてこの世界に留めるために、僕は再びシャッターに指を掛ける。